第3章 中野グループの社長夫人なんて、もう降りてやる
長谷川栞は、はっと息を呑んだ。何度失望させられても、中野航平の冷たい言葉を聞くたび、針で心臓の芯を突き刺されるみたいに痛い。
視線を落とし、頬に浮かんでいた笑みを消す。
「……うん。分かった」
中野航平は、いつものように鋭い詰問が返ってくると思っていたのだろう。だが栞は驚くほど従順だった。そこでようやく、男は真正面から彼女を見る。
確かに痩せている。
中尾美希の言っていた通りだ。昨夜の嘔吐も、彼女の前で嫉妬して見せた芝居ではなく、本当にきつかったのかもしれない。
中野航平は薄い唇を引き結び、声を少しだけ和らげた。
「中尾さんが仕事をよく回してる。お前の今の役目は、蓮の世話だ」
「俺と彼女の関係は何度も説明した。栞、もう騒ぐな。社長夫人にお前を選んだことを後悔させるな」
後悔?
後悔しているのは――自分だ。
家業を捨てて、こんな「中野夫人」になったことを。
長谷川家の娘として名も立場もあるのに、帰って長谷川グループに大事にされるお嬢様でいるほうが、よほど良かった。
栞は目を閉じ、鞄から退職届を取り出す。礼儀正しく、けれど距離を置いた声で言った。
「中野社長、こちらにサインをお願いします。明日から正式に退職します」
言い終えて踵を返した、その瞬間。
ドアの手前で腕を掴まれた。
「長谷川栞?」
中野航平は、反射的に彼女を引き止める。退職届にある署名を見た途端、顔色が沈み、抑えた怒りが声に滲んだ。
「拗ねてるのか」
「今日は歩み寄りに来たのかと思ったが、逆にエスカレートか?」
「いいえ、中野社長」
栞は半分伏せた目のまま、淡々と言う。長い睫毛が小さく震えた。
「華辰は私を必要としていない、とあなたが言った。私も、ちょうどそう思っただけです」
「十年経って、華辰はもう昔の華辰じゃない。みんなが中尾さんを望むなら、私が肩書きだけで給料をもらうより、早く席を譲ったほうがいい」
中野航平が冷笑する。刃物みたいな視線で、言い訳を切り裂くように。
「十年で俺を縛るな。華辰がここまで来たのに、お前の功績が大きいのは分かってる」
「だが長谷川栞、お前は出産してから会社の業務に関わっていない。俺はお前を労ってるだけだ」
「家で子どもを見ていればいい。お前は永遠に華辰の社長夫人だ」
「それすらできないくせに、譲るだの何だの……中尾美希を矢面に立たせたいだけだろ。俺はお前をよく知ってる。頭は回るが、そんなに悪辣になるな」
「昨夜から今まで、一度でも美希に謝ったか?」
謝る?
家庭を壊した相手に?
栞は思わず笑ってしまい、男を見上げた。どこか興味深そうに。
「そう。私が悪辣」
そして、静かに問い返す。
「じゃあ中野社長は、手放すことは考えないの?」
――離婚。
何度も口にした。けれど喧嘩になるだけで、結局何ひとつ変わらなかった。
中野航平は同意しない。たとえ外で何をしようと、栞は自分のもの。帝京市の中野さんは、そういう男だ。支配的で、傲慢で、譲らない。
栞も最初は、本気で離れるつもりなんてなかった。ただ、彼に自分を見てほしかっただけ。彼の言う「わがまま」そのものだったのかもしれない。
けれど今は違う。
疲れた。
離婚して、互いに自由になればいい。子どもだって、半分ずつでいい。平等に。
中野航平の顔が暗く沈み、掴む手に力が入る。折れるほどに。
「最後のチャンスだ、長谷川栞。これ以上その態度なら、蓮の母親を替えることも厭わない」
「蓮は何度も言ってる。お前といると楽しくない、自由がないって」
「長谷川栞、お前は母親としても妻としても失格だ」
失格。
栞は目を閉じ、長く息を吐いた。
そうか。
徹夜で帰りを待って、しじみ汁を煮たのも失格。
高級スーツを手洗いして、真冬にしもやけを作ったのも失格。
小学生の算数オリンピックを必死に教えて、中野家の望む後継者に育てようとしたのも――全部、失格。
この家に、居場所なんて最初からなかったのだ。
「……申し訳ありません、中野社長」
心からの謝罪だった。
失格者は、舞台を降りるべきだ。
垂れた片手がポケットに滑り込み、スマホを軽くタップする。
カウントダウンが動き出す。残り十四日。
すべて整えたら、きれいに消える。中野航平が二度と苛立たないように。
その態度に、中野航平が言葉を失う。何か言いかけたが、栞はもう機会を与えず、扉へ向かった。
あまりにもあっさりと。
中野航平は再び手を伸ばしたが、掴めない。
胸が、ぐっと痛んだ。焦りがじわじわと増していく。
――何か大事なものが、遠ざかっていく。
中野航平は眉を寄せ、栞の背中が消えていく方向を見つめた。
栞は外に出ると、親友の菊地瑠奈へ電話をかけた。
親友と言っても、もう六、七年連絡を取っていない。
瑠奈は服飾デザイナーで、全国を飛び回ってモデルに採寸し、服を仕立てる。現場には男女のモデルも多い。大人同士、火がつけば何かが起きることもある。
要するに、菊地瑠奈は恋人が変わるのも早い。
それが中野航平は気に入らなかった。出産後の栞に「近づくな」と言い、蓮に悪影響だと決めつけた。
栞は従い、幼馴染と六年も疎遠になった。
久しぶりの着信に、瑠奈は電話に出るなり、怒鳴るように言った。
「まだ私のこと覚えてたんだ! 長谷川栞、恋に溺れてもう戻ってこないと思ってた! やっと連絡してきたってことは……後悔した?」
栞は苦笑し、気づけば涙が落ちていた。
中野航平に侮辱されても泣かなかった。中尾美希に弄ばれても泣かなかった。十月十日腹を痛めた子が、他人を母と呼んでも泣かなかった。
なのに瑠奈の声で、悔いの涙が溢れた。
「……うん。後悔した」
「瑠奈、今から戻っても……間に合う?」
電話の向こうがしばらく沈黙し、やがて泣き声混じりで返ってくる。
「間に合うに決まってるでしょ。バカ栞……この数年、私がどれだけアトリエ回すの大変だったと思ってるの」
「アート界隈、みんな待ってた。長谷川栞、社長秘書なんて才能を削るだけ。あんたは筆を持つために生まれた人」
「……私はずっと待ってた」
「ごめん……瑠奈、ごめん」
大通りの端で、栞はしゃがみ込み、声を殺して泣いた。
本来、彼女は誇り高いはずだった。
生まれも才能も恵まれている。
中野航平は知らない。栞は大学でイタリアのフィレンツェに留学し、美術を学んだ。
卒業制作の一枚でヴェネツィア・ビエンナーレし、界隈を驚かせた。
その後の作品は、オークションで七桁を叩き出した。
そんな栞が「鍛えるため」と、専門と無関係な仕事を国内で一から始めた。
会社運営も金融も一から学び直し、それでも結果を出した。
十年、絵を捨てた。
そして今日、彼女は戻ると決めた。
